サウジアラビア女性の運転免許解禁活動30年

サウジ女性の運転免許解禁活動30年(日本アラブ協会「季刊アラブ」NO163寄稿) 

サウジアラビアで、女性の運転免許解禁を求めて声をあげる女性が出始めて約30年になる。最初の運動家達は今、何を思って日々過ごしているのだろう。

ここ12年のサウジ体制の変化は、私が知る過去30年間の動きよりもずっと大きい。その最も象徴的な変化が、女性への運転免許解禁であろう。正直に言って当初、私はこの解禁に懐疑的であった。結局は宗教勢力との調整がうまくいかず、法整備に時間がかかってうやむやになってしまうのではないか、と。

ところが今度は、どうも様子が違う。ジェッダ市のエファット大学やリヤド市のヌーラプリンセス大学、サウジアラムコではすでに100台単位で女性用自動車を買い上げ女性への運転教習を始めたし、リヤド市内の運転教習所も一部を女性専用に改装した。また、ウーバー、カリームといった配車サービス大手は、すでに女性運転手を教習し始めたそうだ。さらに、ジェッダのモール内には女性用自動車の販売店ができ、国をあげて6月の解禁を待ちわびているかのようである。

このスピード感には驚かされるばかりだが、実際にサウジの人々に話を聞くと、彼らはとても冷静に受け止めており、この速い変化を大変歓迎しているようなのだ。

5%の消費税に加えて、ガソリン、ガス、電気代と値上げが続くが、その不満よりも、今は変革に皆がワクワクしている。女性の運転解禁に反対する人もほとんどいなくなった」

といった意見を多く聞く。つい先日も、来日したサウジ女性からこんな話を聞いた。昨年9月に女性の運転解禁というサルマン国王の勅令が出てから、ネットでは様々な意見が飛び交い、女性の運転反対をうたう皮肉な歌や書き込みがあったが、中には「車を運転している女を見たら、燃やしてやる」といった過激なものもあったそうだ。ところがその書き込みをした人物はすぐに特定され、5年の禁固刑を科された。年端も行かない青年だったため、ふざけ半分だったのだから許してあげてほしいという嘆願書も多かったが、結局許されなかった。そのような事件が起きてから、「国は本気だ」という風潮が漂い、表立った反対意見が出なくなったのだという。女性の立場が自由になりつつあることは、中小企業庁や商業投資省で男女が同室で打ち合わせをすることが可能になったことでも、見て取れる。その他にも様々な変化がサウジ女性を取り巻いている。たとえば政府のレセプションでサウジ女性がピアノを弾くなど、数年前は誰が想像できただろう。

さて、女性の運転免許解禁活動に話を戻そう。最初の活動は199011月、首都リヤドで起きた47人の女性活動家たちによる運転デモである。当時リヤドに住んでいた私は、その後の調査で、首謀者であった2人の女性に生々しい話を直接聞くことができた。

なぜそのようなデモが起きたのかというと、発端は湾岸危機であった。199082日のイラクによるクェート侵攻に端を発した湾岸危機をきっかけに、米軍がサウジ国内に駐留を始め、米国軍用ジープがあちこちで見られるようになった。すると皮肉なことに、人々の注目は軍用ジープよりもそれに乗っている米軍女性兵士に集まった。未婚の女性兵士が、サウジで禁じられている半袖姿で、髪の毛を出し、しかも男性と同席で、おまけにあろうことか、堂々と運転している!宗教家にとっては許せないことではあるが、ことは戦争寸前の非常事態であったため、米軍に守ってもらう立場のサウジとしては黙認するしかなかったのである。しかし一部のサウジ女性たちは、この米軍女性たちの姿に大きく刺激された。私たちも運転できるし、男性と同様に仕事ができるし、もっと自由であるべきだ、と。

そのような背景から起こったデモの始まりは、リヤド市内にある欧州系の高級スーパーマーケット、ユーロマルシェの駐車場であった。ズフル(昼)の時間帯、申し合わせていた47人の女性が人影のほとんどないこの場所に、自分の車を外国人運転手に運転させて、ぞくぞくと集まってきた。通常、昼から4時頃までというのは伝統的に昼食と昼寝の時間帯であり、ほとんどの人は自宅に帰る。だからこんな時間にスーパーマーケットに来る人などは滅多にいないし、道路は灼熱のゆらぎの中でむなしく、ガラガラであった。次に彼女達が起こした行動は、雇用している外国人の男性運転手(多くはフィリピン人)に、

「今日はもう帰っていい」

と言ってチップを渡すことだった。ホクホク顔の運転手たちは、三々五々その場を離れたと言う。彼らの姿が見えなくなったあと、事前の相談通り、47人の女性達はおもむろに運転を始め高速道路に入った。走行車は少なく、運転に問題はなかった。たまにすれ違う対向車も、女性が運転しているとは気づかない様子だった。

「とても気持ちよかった。米国で運転免許を取得したが、まだ腕は鈍っていないと感じた」

思いのほか長いあいだ運転することができたが、1時間ほど経ったころ、道路を取り締まっている交通警察の車に見つかり全員が警察に誘導された。彼女達が集められた部屋は、小さな居間だったそうだ。窮屈な空間で何時間も待たされた。その時間が一番苦痛だった、と別々の場所で別々の日にインタビューしたにもかかわらず、2人は同じことを言った。

 まもなく警官から全員の氏名、職業、住所などを記入するよう書類を渡され、ほどなくして「帰れ」と言われたそうだ。その時には少し肩透かしをくらったような感じだったが、翌日職場に行くと、上司から、

「明日からもう来なくていい」

と突然の解雇通知を受けた。私が話を聞いた女性の1人は大学教授、もう1人は医学関係者だったので、それぞれが勤務していた大学、病院から一方的に理由も言われず解雇されたのである。処罰は本人のみならず、父親、叔父、兄弟にまで及び、男性親族ほぼすべてが一気に職を失う事態になり、海外渡航禁止の罰も受けた。しかもこの運転デモが起こるまで、慣習により女性の運転が認められていなかったのだが、この後ファトワ(宗教令)が出され、公式に女性の運転が禁止されてしまったのである。その3年後に突然、復職できたそうだが、その間の彼女達の心の内を考えると、胸が熱くなる。涙をこらえながら語ったデモ首謀者を、私の友人であるサウジ女性が、

「この女性は我々のヒーローなのよ」

と紹介してくれたとき、彼女の表情に尊敬の念と共に同情の色が見てとれた。

運転の権利を勝ち取りつつあるサウジ女性の姿を見るとき、約30年前のあの抗議活動を思い出さずにはいられない。